楽あれば苦ありという出生肯定者
この世に生を受けるという事は、
「死」という100%必ず発生する苦痛を課されるという事だ。
どのような形の「死」であれ、「生」という状態から「死」という状態に移行する際には壮絶な身体的苦痛を伴う。例え一瞬で即死したとしてもだ。
己にいずれ降りかかる「死の身体的苦痛」を想像する際の恐怖、そして自分という存在(自我)がなくなる事に対する実在的恐怖。これが「死の精神的苦痛」だよ。
繰り返し言うが、「死」というものは出産により生を受けた以上、100%の確率で誰にでも必ず訪れる苦しみだ。
出産を肯定する者に問いたいのは、生を受けた事で「死の苦痛」に匹敵する程の幸福が、100%の確率で訪れるのかという事だ。
「私は死んでも後悔しない、死をモノともしない程の幸福を経験した。だから生を受ける事は素晴らしい事だ」という人もいるだろう。しかしその幸福は誰でも100%経験する訳ではない。その幸福を経験しない者にも「死の苦しみ」は100%訪れるのだ。
産まれてしばらくして呼吸困難で死んでしまった赤ん坊などどうだろう?圧倒的な死の苦しみに匹敵する幸福を一瞬たりとも得られただろうか?
生を受けた以上「苦は100%保証されるが、その逆は全く保証されていない」という単純な事実からして「出産とは苦しみを作る行為」以外のなにものでもないだろう。